僅か19歳にして世界最高峰のエベレスト登頂に成功した南谷真鈴さんはあるインタビューで「山に登っている時は、ひたすら自分の内面と向き合い、弱い自分に勝つにはどうしたら良いのかを考えた」とお話しされています。南谷さんに限らずスポーツで大成される方は、自分の内面と時間をかけて向き合い、自分との対話の時間を持っているように思います。元々の才能にあぐらをかかず自分の持てる力を最大まで引き出すにはどうしても自分を知るという作業が必要なのでしょう。さて、自分の内面と向き合う機会はこのような有名な方だけでなく我々も人生の中で幾度か機会があるはずです。高校受験や就職活動の場などはまさにそうです。特に大学生の就職活動では自己分析という言葉の下、自分の長所と短所、性格などを洗い出します。また、最近では社会人になっても自分の目標を定めてそのために必要なことを考えるという課題を課す会社も見受けられます。

ところで、自分と見つめ合う作業が好きという人はあまり聞いたことがありません。多くの人がこのことを苦痛に感じるようです。それはなぜでしょうか。思うに自分と見つめ合うことは「良い」面だけでなく、自分の中の「悪い」面からも目を逸らさずに向き合い続ける作業であり、この作業が「自分」という根底を少ながらず揺さぶる側面があるからだと思うのです。自分の「悪い」面から逃げず、さらには受け止めるには多大なエネルギーを必要とするのでしょうし、一部の人には想像を絶する辛さになるのだと予想されます。

さて、そうは言っても、大人になることには自分を客観的に見つめることができることが含まれています。そのため、辛くともこの作業を誰もが行わざるを得ないはずですが、日常生活の中では日々の現実的な課題に追われて自分と向き合う時間を作るのはなかなかに難しい。それでも我々はふとした時に自分と対話をし自分の気持ちを考えることがあります。どうでしょう?どんな時ですか?おそらく、日常を離れた旅行先や大自然を目の当たりした時、あるいはいつもと異なる非日常的な場面に遭遇した時ではないでしょうか。南谷さんが登山をしながら自分の内面と向き合うとお話しされていたことも、山という場面や限界状態という非日常感がこの作業を促進したと思うのです。では、この非日常ではなぜ自分と向き合う作業が促されるのでしょうか。一つには会社や学校の名前や自分を代弁するラベルが剥がされるためと考えられます。もう一つには普段起きることのない大きな情動の動きで「私」がそのままの形で表に出てくることも挙げられそうです。あまりの驚きに場を考えず大声を上げてしまい、そんな自分に驚いたなどの例が分かりやすいでしょうか。いずれにせよ着飾るものが何もない状態というのが、自分と向き合いやすくするために大切なことのようです。そう考えると我々は日々どれだけ多くのラベルに守られて「私」を見ないようにしているのかということにも繋がりそうですね。見ないふりを必要とする本能的な何かが私達人間にはあるのかもしれません。カウンセリングの場面ではこのラベルを脇に置いておくことは大事なことですし、置いておけないのであれば、その理由を考えることが必要になっていきます。このように書くと自分の気持ちと向き合うという作業はまさに全てを脱いで臨む大手術のようで、どこか怖く、どこか尊い、人生の岐路を感じさせる大きな心理的な出来事だと実感してきます。長くなりましたので、今回はこの辺で。