はじめに

 ハマスホイという名前を聞いたことがある人は少ないのではないでしょうか。私も今回初めて耳にした画家でしたし、デンマーク絵画も初めて鑑賞しました。東京都美術館では3月26日まで展示を行っております。例のごとく興味を惹かれ行ってまいりましたが、平日ということもありゆっくりと鑑賞できて非常に良かったです。

デンマーク絵画

 さて、デンマーク絵画の特徴として一番に感じたことは「時が止まったような静けさ」でしょうか。日常の風景の一瞬を切り取って保存しているような印象です。本展示の最初の舞台となっている19世紀初頭、ヨーロッパではまだまだ宗教画が盛んに書かれていました。そこにある主題は「生々しい動き」だと思います。印象派が現れ始めた19世紀半ばからはいくらか落ち着いたというか、どこか安心して鑑賞できる作品も増えますが、それまでは「神」という空想を描くことや「王族」という非日常が描かれることが多い印象です。一方デンマーク絵画では、19世紀初頭から日常の一コマを絵画として残すことが推奨されていたようです。なぜでしょうか。

ヒュゲ

 デンマークには「ヒュゲ」という言葉があり、これは「くつろいだ、心地よい雰囲気」を表すようです。おそらくですが、ヒュゲが絵画に与えた影響は大きく、日常の中にある風景を描くこと、家族の繋がりを描くことへとつながったのではないでしょうか。時は産業革命真っ只中であり、静的な日常を慈しむ気持ちが一層高まったのかもしれません。さて、ここで気になるのがデンマーク絵画は色使いが暗いものが多く、しかしどこか安心ができる絵画が多いことです。喜劇的でも悲劇的でもなく日常を淡々と描いているのです。一方で、空想に逃げるということもありません。全てが写実的な絵でした。このことは我々日本人には理解しやすいことかもしれません。「無心」であり「ただそこにあることを感じる」という心境です。産業革命により変わりゆく街を眺めつつ、そこに憂いた気持ちを感じつつもその流れを見届けるという姿勢があるように思いました。

安心した空間

 デンマークといえば家具と食器を思い浮かべる人は多いでしょう。どちらも代々子へと受け継がれて大切に使われています。デンマークの方は日本人で言うところの九十九神のような精神を持っていたのではないでしょうか。物を大切にすること、変わらない時間を過ごすことを大切にしていた人々が変わりゆく街並みと向き合うことは大変辛く、絵画に残すことで世界を永遠のものとして残そうとしたのかもしれません。また、本展示の舞台となる19世紀初頭よりデンマークでは風景画が積極的に描かれます。当時のデンマークは愛国主義が強く美しい自国を残そうとしていたのは間違いないはずです。印象派の画家たちが外に出て行った理由とは異なる切実な思いがあるように感じました。

ハマスホイについて

 ハマスホイはデンマークのコペンハーゲンの商人の家で4人兄弟の次男として生まれます。8歳の頃から素描の練習を始め、15歳で王立美術アカデミーに入学するなど、幼い頃から絵画に携わって成長をします。初めての展覧会ではその暗い色調や自由な筆使いから、当時保守的であったデンマークでは酷評されますが、その才覚を見出したクロイアに認められ以降師事します。初期のハマスホイは肖像画に多く取り組み、当時デンマークで主流だった風景画にも取り掛かり始めました。20代半ば頃から自身の住んでいるアパートをモチーフに絵を描き始めたことが、「室内画家」としてのハマスホイの代名詞となっていきます。風景画にしても室内画にしても人物が描かれていることが少ないのですが、ある時期から女性の後ろ姿を描いた作品が度々描かれるようになります。これは妻のイーダであり、誰もいなかった絵画の中に妻が登場し始めたことでハマスホイの心境の変化に我々が気付くことになります。

誰もいない室内画が意味すること

 時間を止めて閉じ込めることがデンマーク絵画の意図しているところであるのなら、ハマスホイもまた絵画の中に時間を閉じ込めようとしたのでしょう。それは、自分が過ごした部屋を描くことで変わらないという保証を得る必要が彼にはあったということです。結婚前のイーダとハマスホイの母を描いた作品がありますが、この絵からは二人の交流が一切感じられません。二人で穏やかに過ごしているのではなく、暗い雰囲気であるにも関わらず緊張感を感じないのです。少し考えれば結婚前の婚約者が義母と一緒に過ごす様子は幾らかのぎこちなさが生まれるはずですし、それを描く画家の心境を描いたとしても緊張感があって然るべきです。しかし、彼の絵はやはり「ただそこにある」なのです。推測ですがハマスホイは人の情緒に触れることが苦手というか恐怖に思う心性があったのではないかなと感じています。これは彼が無機質な部屋を描き続けたことと同様に変わることの恐れでもあります。もう一つその論拠を示すと彼の室内画には扉のノブがない絵があります。つまり外に出れない、転じて自我が外界からの脅威にさらされることがないし、自分から近づくこともないということです。彼は交流してそこから何かが生まれるという過程を恐れていたのではないでしょうか。何かが生まれるということは変化するということですし、他者との情緒的接触は変化を受け入れることでしょうから。

結婚してからの心境の変化

 しかし、そんなハマスホイは奥さんをとても愛していたのだと思います。暗い中、無機質な部屋を描き続けている中でイーダの描写はとても暖かみを感じます。しかし、彼は奥さんを直視できなかったのでしょう。それは直視して変化してしまうことへの恐れからです。ややスキゾイド的な性格が浮かんできますね。その結果、愛おしい奥さんを後ろから描くことで、変わらない暖かさを絵画に閉じ込めたのではないかと思います。一つ見ていて悲痛な気持ちが湧いてきたのが1ヶ月半ほど入院した後のイーダを描いた肖像画です。この時イーダは38歳ですが、絵画からもとても疲れている様子が見えます。このことを生死を乗り越えた妻への感謝と愛情と説明がされていましたが、もう一つ有無を言わさず変化をしていくことへの恐れが描写されているように感じました。最愛の妻の変化は彼の世界を崩壊させるものであったのではないでしょうか。

北欧のフェルメール

 さて、本展示ではハマスホイを「北欧のフェルメール」と称していました。この言葉の意図がまだ掴みきれていません。フェルメールの絵でも同じ女性が複数の作品にモデルとして登場します。随分と派手な衣装の女性ですが、とても楽しそうです。そう、フェルメールも室内での女性を描き、窓から入ってくる光を巧みに描き、日常を切り取った作品が多いのです。この点については確かに似ているように思います。しかし、作風は明るいしそこに情緒的な交流が感じられることが大きく異なると思うのです。牧歌的ですがそこに暖かさとエネルギッシュな雰囲気が漂います。一方、ハマスホイは愛情と優しさは感じますが、どこか憂いというか切なさというか悲壮感を漂わせています。ハマスホイがオランダを訪れた時にフェルメールの作品を目にしたそうなので、影響はあったのかもしれませんが、作品の方向は別物のように思います。
 書いた後に私のセンスがないだけかもと思いネット検索をしてみましたが、同じような意見を持っていらっしゃる方がいました。安心しました。私もフェルメールと彼を称することが適当であるのかと疑問に思うところがあります。
 ついでに技術的な点も備忘録程度に書いておこうと思います。彼の絵は基本モノトーンですが、黒色が非常に計算されているように思います。黒の中に赤みが含まれており、それが絵画全体を寒々しいものにしないようにまとめているように思うのです。

気になった絵画

 さすがタイトルを飾るだけあると唸るほどにハマスホイの作品は見応えがあります。しかし、その他の画家の絵も素晴らしいものが多く展示されていました。いくつかご紹介すると、ユーリウス・ボウルスン「夕暮れ」、ミケール・アンガ「スケーインの北の野原で花を摘む少女と子共たち」、ヴィゴ・ヨハンスン「きよしこの夜」などは気持ちがとてもリラックスし暖かくなる作品でした。是非ご鑑賞ください。

おわりに

 デンマーク絵画を「時が止まった静けさ」と表現しましたが少しだけ訂正しておきます。デンマークでは1870年頃にスケーインという港町を舞台に画家が多くの絵を描きます。そこで描かれている絵は漁師町の生活であり、非常に躍動感がある「動の絵」です。これは従来のデンマーク絵画と明らかに違います。つまり、変化や新たな世界を求める動きがあった一方で、ハマスホイのように変化に抵抗する動きもあったと考えることができ、この時代のデンマーク社会がとても流動的で分裂的に存在していたことを推測することができます。今回、デンマーク絵画に触れられたことは貴重な機会でした。

 

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