ビッグデータとは

 近年、ビッグデータによる活用が当然のように行われるようになりました。ビッグデータとは今までの常識では考えられない程の大量の情報や多様な情報を収集した集合体を示す言葉です。これを統計的な手続きにより処理することで様々な事柄に活用をすることができます。例えば、ビジネスでの顧客の購買傾向や、選挙戦の的確な予測などに活用されています。某大手通販サイトなどで買い物をするとお勧め品が突如画面に現れることもありますが、これも過去に同様の商品を買った方々のデータの積み重ねから推測し、より購入可能性が高いものを勧めてくるわけです。とにかく母数の多いデータから導き出されるために、その情報の正確さ的確さは驚嘆に値しますし、さらには上記のような人の心を読み取るような機能を持たせることも可能となるわけです。しかし、このことが一つの問題を生み出すのではないかということが今回のテーマです。

ビッグデータから感じる主観的な体験

 我々は日常の中で、自分がやらないとなぁと思っていることを人がいつの間にか済ませてくれていたり、考えていることを言葉にする前に察してもらえたりすると、そこに喜びを感じます。これは手間が減ったということ以外にも、自分の気持ちが伝わることで他人と繋がる喜びを感じるからです。このような喜びを自然に相手に与えることができる人が気が利く人と言われる人々です。そして、気が利く人というのは気遣ってもらえる側からすればありがたいわけですが、そのありがたさに段々と甘えてしまうのも人間の性です。気遣われることが当然のこととなると、気が利く人と自分をどこかで同一視する体験をするはずです。言わなくても分かってくれるという関係性は、思考を共有するという感覚に近いからです。つまり気が利く人の存在というのは「私」の自立性を損う危険性を含んでいるわけです。

 さて、もうお気付きでしょうが、この気が利く人がつまりはビッグデータさんです。あなたの前意識の水準にある思考をあなたよりも先に気付き提案してくるわけです。このことは統合失調症に見られるような自分と外界との境界が曖昧になる感覚や思考が盗まれる体験に近いようにも思われます。つまり、自分の意思とは関係なく操作誘導される感覚を体験することであり、これを作為体験と呼びます。

ビッグデータが作る社会

 極論ですが、ビッグデータの活用が進むと、我々人間は自分の意思を自分で決めることすら必要としなくなるのかもしれません。なぜなら、自分で思考し自分の中にある気持ちを考える前に、ビッグデータが最適と思われる解を提示してくるわけですから時間をかけて考えることに意味を見出すことは難しくなります。そしてビッグデータの背景には世間の多数派の意思があるわけで、これは言うなれば私と世界が繋がる体験をしていることになります。「私」と「世界」の境界が益々見えづらくなっていくのです。そのような社会の中で「私」を知りたいという欲求が我々人間に湧いてくるのかというとやや疑わしいようにも思います。そもそも「私とは」という実存的な疑問を我々は保持し考え続けることが出来るのかさえも不安に思うのです。

 これからの日本社会は多様性を尊重する社会へ向かうべきという言説があります。一方で、電脳世界は多様性どころか一つの意識の集合体のようなものに我々を取り込む方向に動いています。これからの時代、私たちは「私」という存在が飲み込まれることのないように戦わなければならないのかもしれません。某国民的アニメでは人間がコンピューターに支配される世界を描いた映画を上映していました。何十年も前のことです。あの映画が笑い話で無くなりそうな怖さを感じるのは考えすぎでしょうか。