はじめに

 先日、東京都美術館で開催されているエゴン・シーレ展に行ってきました。シーレをメインに据えた展示は30年ぶりとのことです。過去に数点の作品を見たことはありますが、シーレがどんな人物なのかはよく知りませんでしたので、今回は勉強する気持ちで向かうことにした次第です。

評価されるまでの道のり

 シーレは1890年にウィーン近郊で生まれます。決して貧しくはなかったようですが、15歳で父親が他界し、裕福な叔父が後見人となりシーレを支えたようです。今回の展覧会では彼のことを天才と褒め称えていますが、そのエピソードの一つがウィーン美術アカデミーへ歴代最年少である16歳で入学したことです。

 しかし、古典的なアカデミーでの時間に意味を見いだせなかったシーレは、退学してグスタフ・クリムトの下へ向かいます。クリムトはシーレの才能を高く評価して、自身の近くに置いたようです。今回紹介のあった印象的な言葉に「僕は才能がありますか?」と問うシーレにクリムトは「それどころか、ありすぎる」と答えていたやりとりが紹介されています。これほどの賛辞はなかなかないでしょう。若き日のシーレの作品には金の塗料を用いた作品があり、クリムトの絵かと思って足を止めることがありました。その影響がとても大きかったことがうかがえます。

作風について

倫理的な反発

 20歳を超えたあたりから、シーレらしさが目立つようになったと感じます。彼の作品は死や性に関するテーマを正面から扱っており裸体や艶かしい構図が多く描かれます。その過激さが周囲に受け入れられないばかりか嫌悪感を抱かせるようになったそうです。モデルの娼婦が出入りをしたり、戸外でのヌードデッサンを行っていたことで、地域住民の不安を掻き立てたエピソードもありました。警察に踏み込まれ勾留され、自身の作品を処分されることもあったということから、当時与えたインパクトは相当のものだったのでしょう。また、彼は自画像も多く残しています。自身の身体の細部まで描き、これもまた倫理的には受け入れがたいことだったのかもしれません。

自分の存在を確認する方法として

 もう一つ彼の作風で特徴的なのは人体のパーツを精緻に描き、かつ強調している点です。まるで、人間の身体がどのような構造をしており、どのように変化をし、どのような機能を有しているのかを確認するようでもあります。食物を食べないで痩せこけた自身の身体を描いた自画像は、シーレ自身が自分の存在を確認するために描く必要があったのではないでしょうか。実際にシーレは自身の中にある複数の自我を統一できずに苦しんだ人であったようです。心理の言葉では同一性の拡散という表現になりますが、この苦しみと向き合うために彼は自分の身体を確認する作業を必要としたのかもしれません。

クリムトとの関係についての考察

 シーレのモデルを長年務めたヴァリー・ノイツェルが描かれた作品は多数残っています。一説にはノイツェルはクリムトのモデルを務めていた人物でもあったそうです。尊敬し師事したクリムトのモデルと恋人関係になるというのはどのように考えればよいのでしょうか。父のような立場にいるクリムトのパートナーと一緒になることは母を求めることであり、クリムトに対する尊敬と葛藤的な気持ちが共存していることを察しなくもありません。シーレは4年を共にしたノイツェルのことを「彼女は結婚相手にはふさわしくない」と言って別れを切り出したそうですが、シーレの自立を意味するエピソードだったのかもしれません。シーレにとって記念すべき日となった第49回ウィーン分離派展の直前にクリムトは他界します。クリムトはグループメンバーを描いた作品を手直しし、机に向かうクリムトの席を空席として描きます。ここには強い尊敬と共に、威厳ある父に向けた恐れもあるように感じました。そして、その数ヶ月後にシーレも28歳の若さで他界することになります。

参考:クリムト展・ウィーンと日本2019

結婚生活に見えるもの

 ノイツェルと別れて、向かいの家に住んでいたエーディトと結婚することになります。ただ、このエピソードについてはシーレが二股を掛けようとして、ノイツェルから離れたという説もあるようです。この結婚生活はシーレにとっては随分と嬉しいものだったようにも思います。というのも「僕ら人間は互いに愛し合うべきなんだ」などの言葉を残しているようで、これまで公序良俗に反することを指摘され続けてきた男の言葉とは思えないほどにロマンチックです。しかし、結婚3日後に第一次世界大戦が勃発しシーレも従軍することになります。彼の才能のお陰か、軍属ながら作品に取り組むことが認められ、第49回ウィーン分離派展に出店し大変な評価を得ます。成功した画家として高級住宅地にアトリエを構えたのが1918年7月となり、まさに人生の最高潮であったと思われます。しかし、10月に妻がスペイン風邪によってシーレの子を身篭ったまま他界、その3日後にシーレも同じ病によって命を奪われます。結婚にしても、仕事にしても実態のあるものを掴んだ途端に破壊される運命を繰り返した人生だったようです。

印象に残った作品から

 さて、色々と問題作の多かったというシーレの作品ですが、個人的にとても印象に残ったのは母子をモデルにした作品でした。「母と子」と「母と二人の子どもII」です。

「母と子」1912年

 子どもを抱いた母とこちらを見つめる幼い子どもの絵画です。疲れて目を瞑っている母親が我が子を固く抱きしめています。子どもの目はぎょろっと大きく見開いてこちらを凝視しており、言いようのない怖さを感じるのが第一印象でした。しかし、よくよく見るとその絵には、母子の間にある固い絆と確かな愛情が漂っており、疲れた母親がそれでも我が子に向ける想いに自分が畏怖していることに気付きます。どこにでもある光景ですが、この世で最も確かなものなのかもしれません。

「母と二人の子どもII」1915

 まるで幽霊のように生気のない母親が、今まさに死の淵にいるような暗い顔を持つ我が子を抱いています。母親のもう片方の膝には、鮮やかな色の服を身に付けた明るい顔を持つもう一人の子どもがいます。母親の視線は明るい顔の子どもに、その子どもの視線は自分とは反対の膝にいる暗い顔の子どもに向けられています。これは亡くなったキリストを抱き嘆く聖母マリアを描いた作品「ピエタ」の構図を模倣しているということですが、その後の復活を予感させる雰囲気はありません。勝手な解釈ですが、母親は子どもとの対峙で疲れて果てており、子どもは母を消耗させる悪い子であるはずなのに、母親は良い子の面に目を向けようとしている。しかし、子ども自身は悪い自分の存在に気付いており、その自分を無視できないという物語が浮かんできます。シーレの自我がまとまりを欠いていたことを考えると、自分を分裂させ捉えること、そして、その悪い自分を無視できず母を苦しめる存在であったことに対する何らかの思いを抱いていたことも考えられます。

 シーレがノイツェルを描いた「悲しみの女」ではシーレが彼女を困らせる存在のように描かれています。ノイツェルが父であるクリムトのパートナーであったことを考えると、子どもが母親を困らせることはシーレにとって重要なテーマであったのかもしれないと思いました。

シーレが求めたものとは何だったのか

 母子の絵を見るとシーレが求めたものは、一貫して自分が「なぜ産まれたのか」「自分がどうして産まれたのか」という問いへの答えだったように思います。自分の身体を細部まで観察し、子を産む母体を研究し、自分がなぜここに存在するのかということを知ろうとしたのではないでしょうか。彼の描きたかったものは性の美しさではなく、生の確かさなのかもしれません。

 彼はこの問いに何かしらの決着をつけたのだと思います。シーレの結婚への昂まりは自らが産み出す存在になったということでしょう。彼の「自分とは何者なのか」という苦しみに対して、創造者としての価値を持つことを見出したということです。しかし、上述のように彼の得た確かさは短い期間で終わりを迎えて、儚くこぼれ落ちていくことになります。悲劇的な画家であったことは間違いないだろうと思います。

おわりに

 シーレが生きた時代はフロイトが生きた時代でもあります。心の奥にある無意識への探究が始まった時代であり、フロイトが性との関連でヒステリーを論じたように、無意識と性の繋がりに関心が向けられた時代であったのだと思われます。シーレの作品には人間の根源を求めるような迫力があります。おそらく、多くの人が抱えている不確かさを成人になっても抱え続け、表現し続けていたのではないでしょうか。

参考:ウィーン・モダン/クリムト、シーレ世紀末への道

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