はじめに

 我々心理職は過去の面接の経過を学ぶことで、カウンセリングの視点や特定の症状への理解を深めています。大袈裟に言えばフロイトの時代から100年以上の歴史の中で積み重ねられた知見が今でも日々の相談の中で活かされているのです。そして、これを可能にしているのが心理職の中で行われている事例研究という研鑽です。

事例研究とは

 病院などでは症例研究などとも言いますが、事例、症例、ケースなどはほぼ同じ意味で用いられています。ある相談事や悩みごとを抱えていらっしゃる方の相談に至るまでの経過と、カウンセリングや分析開始後の変化をまとめて、何が起こったのか、何がきっかけとなったのかを明らかにします。そして、得られた理解を心理職の間で共有して、より高度な心理援助を行えるようにすることが目的です。つまり、職種全体の質を底上げするための営みと言えるでしょう。

 心理職に限らず医療に従事する職種の多くが同様の研鑽の場を持っていますし、福祉職の方も事例から学ばせて頂いている部分は大きいはずです。人が人と関わる職種では、このような機会がどうしても必要になります。

どのような場で研究はなされるのか

 研究というと学術的な性格を連想させますが、ある方の相談を受けている担当者が別の専門職に相談して理解を深めるコンサルテーションも広い意味では研究と言えます。このやりとりによって過去の相談や症例と、今お会いしている方との類似点を抽出して次のセッションに活かすことになるからです。

 よりアカデミックな場では学会発表や論文執筆などの形を取って、多くの目で検討されます。この場合、事例担当者が先行研究などと比較してどのような類似点があるか、どの点が異なるのかなどをまとめて考察を加えます。すると、第三者からのコメントや査読などで指摘を受けることになりますので、その点も踏まえてさらに理解を深めます。

 多くの人から見て妥当な内容であると判断されると、その結果は論文や書籍などの形を取り、他の心理職へと伝えられて日常のカウンセリングや心理療法の発展に反映されることになるのです。

倫理規定の遵守

 さて、自然現象や実験結果を報告することと異なる点として、事例研究では一人の人間の人生を扱うことになります。当然、そこには個人の尊厳がありますし、特定をされると不利益を被る方もいらっしゃるでしょう。そこで、多くの場合は個人情報の保護や個人を守るための倫理規定が定められています。例えば、心理臨床学会では事例研究などで相談経過を紹介する時には、個人情報を保護する観点から以下のように定めがあります。

 クライエントや研究協力者のプライバシー保護の措置を行い, クライエントや調査協力者の匿名性の保障をする。例えば,個人が特定できるような具体的な記載は控えるなどの対処をする。また,臨床の現場に関する詳細な地域名や固有名詞も記載しない。ただし,特定の文化や事象そのものの分析や検討が研究目的に含まれる場合はその限りではない。なお,上記のいずれの場合であっても,論文の中で重要な意味をもつ事実関係を変えてはならない。プライバシー以外の,あるいはプライバシー保護においても重要な事実関係の改変は,捏造,改ざんとみなされる。(心理臨床学会「論文執筆ガイド」より)

 要約すると、個人情報や個人を特定できる情報の一切を伏せた上での報告義務が課せられており、この定めに違反がないかを組織的にチェックを行う体勢が整えているのです。

匿名性を巡っての判例

 多くの学術団体が個人の特定と情報漏洩を防ぐために、複数人の目を入れる体制を整えています。しかし、過去には個人が特定されてしまった事例もないわけではありません。少年保護事件に関する論文を家庭裁判所調査官が事例報告として発表し、プライバシーの保護が十分に配慮されていかを巡って争われた例もあります(最高裁判決、令和2年10月9日)。

 この例については違法性はないと結論づけられましたが、双方にとって残念な想いが残ってしまったのではないでしょうか。出来ることであればお互いに納得した上で事例研究や報告は行いたいところです。

事例研究によるクライエントの利益

 事例研究によって心理職間で理解が共有されると、心理サービス全体の発展に繋がっていくことについては批判はないと思います。そして、カウンセラーがそのような前例に明るいことでカウセリングの質を向上させることについても異論はないでしょう。

 そうは言っても、自身が事例研究の対象となり時には公の場で話題にされることに抵抗を覚える方もいらっしゃると思います。その気持ちは担当カウンセラーに率直に伝えて良いことです。ただ、事例研究は相談者にとっても大きな利益となることを最後にお伝えしておきたいとも思います。

 カウンセリングや精神分析は通常一対一の場面で行われるものであり、そこでは二人のやりとりによって方針が決まります。ここで注意を要する点は、もしカウンセラーが相談の核心となる部分を見過ごしていたり誤解をしていると、その後の経過は的外れなものになることは勿論、ときには相談者の方に大きな傷を作る危険があることです。他の専門家の目が入る機会を得ることができればカウンセリングは妥当な方向へと軌道修正することができますが、そのような機会がなければ悩みの改善に繋がらない時間が延々と続く危険があるのです。

 つまり、事例研究によって他の専門家の目が入る下地があることでカウンセラーの独りよがりを押し付けられることもなく、安全なカウンセリングが保証され、ひいては相談者自身の利益につながるのです。

事例研究が困難になっている事情

 近年は、インターネットの普及もあってか個人情報保護の規定が昔よりも厳しくなっています。そのため、心理職が所属する組織によっては事例を報告し、第三者の目を入れることそのものが難しいこともあるようです。これを反映してかどうかは分かりませんが、学会によっては事例発表や事例論文が減っています。確かに事例研究によって個人情報の漏洩が起こるリスクはゼロではありませんが、研究による知見の共有が不可能となれば心理支援というサービスは瓦解してしまう恐れがあるのではないでしょうか。

 今後、心理職はより時代にあったやり方で事例研究を行う体制を整えていく必要はあると思いますが、現段階では未だ模索中と言わざるを得ないようです。

参考

  • 心理臨床学会「論文執筆ガイド」
  • 最高裁判所判例集( https://www.courts.go.jp/index.html )

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