はじめに

 孤独という言葉からはどのような状況を思い浮かべるでしょうか。心を開ける人が誰もいなくて自分一人で過ごしている様子や、悩みや苦しさを誰にも打ち明けられずに抱え続ける様子などが思い浮かぶのではないかと思います。

孤独な人間関係がクローズアップされる現代社会

 少し前から孤独死という言葉を耳にするようになり、独居していた高齢者が人知れず他界していたという報道は決して珍しいものではなくなりました。また、職場での孤立や教室内での居場所のなさなどは孤独の辛さを容易に想像できる場面ですが、今でもなくなることはありません。

 反対に孤独を肯定するような動きもあります。お一人様へのサービスを謳った飲食店なども増え、一人カラオケ、ソロキャンプなど一人でいることと苦痛を切り離す動きも目立っています。

 孤独であることに価値付をしたサービスが急に台頭してきた理由はなんとも興味深いものです。逃れられない孤独による苦しさを打ち消すように、一人を楽しむことが強調されているように思うのは考えすぎかも知れませんが、現代社会における孤独がとても身近にあることを浮き彫りにしている流れだと思います。

孤独の苦痛とはどのようなものか

 お一人様のように孤独を肯定的に捉える動きはありますが、孤独とはそもそも非常に苦痛を伴うものであるはずです。だからこそ、ポジティブに捉え直す必要があるわけですから。

 孤独を感じるのであれば、そこには他者の存在が必ず意識されているはずであり、他者との接点を持ちたい欲求が満たされないことが孤独の苦しみなのではないでしょうか。孤独な日々では情緒や体験は何の感慨もなしに流れて人生の彩が失われます。人は誰かの中に自分を映すことで自分の存在を確信しますが孤独は確信を奪うのです。この「自分が希薄」であることの気付きもまた孤独の苦しみだと思います。

 日々孤独な環境に置かれている方は、おそらく自身の苦悩を日常的に感じることはありません。しかし、何かのきっかけで情緒が動き出しダムが決壊するように溢れる時があります。その激流は日常生活は勿論、自分自身の価値すら疑う程の破壊力を伴うものとなります。

求めている人間関係はどんなものか

 他者との関係が意識することが苦痛の源泉であれば、人とどうなりたいのかを考えることは必然です。孤独の苦しさや受け止め方を自分の言葉で語るときには自分の欲求に触れざるを得ませんが、それはとても勇気が必要なことです。そのためか経済的負担や時間的制約を理由にして目を向けずに済まそうとする働きが生じることもあるように思います。あるいは本当は人を求めていないと否認することもあるでしょう。

 これらの自分の欲求に触れることを妨害する気持ちがあることを承知しつつも、ひとまず脇に置いて、まずは自分がどのような人間関係を欲しているのかを考えられることが理解の一歩になります。

現実的な事情が背景にあることも

 誰かと話したい触れ合いたいという気持ちが、人の輪の中に入っていくことの苦手さと関係している方もいらっしゃいます。それは、会話の苦手さがあったり環境的な要因や身体的なハンディから生じるものであったりします。このような事情がある時には福祉の援助が必要になることもあるでしょう。行政の支援によって人の縁が出来上がり、孤独から離れることに成功する方もいらっしゃいます。

心理学者の視点から

 孤独感が生じる理由についての論考もあります。孤独に対しての対処の方法ではなく、なぜ孤独を感じるのかという主観的な機能についての指摘ですが、参考までにご紹介をしておきます。

M.クラインの考える孤独

 クライン(M.Klein)は最後の論文である「孤独感について」で考察をしており、孤独感のタイプをいくつか挙げています。一つは母子分離に関する指摘で、母と一体であった時間を思い返して現状を嘆く気持ちです。二つ目は自身の悪い部分を投影した結果、対象(母親)が自分の味方ではなくなり孤独を感じるという指摘です。

 最後に、現実では相手に気持ちを投げ込んでも気付いてもらえないことが起こるので、この気持ちは自分から切り離されて失ったものとなります。これは万能的に分かってもらうことは不可能であるという気付きとなり孤独が生じるということです。ただし、切り離されているので当人が孤独を生々しく感じることが出来るのかは議論が必要なところでしょう。

 これらの孤独に負けないために、彼女は良い対象を内在化する、万能感を放棄するなどの方法を示していますが、上手に対処ができない時に孤独の苦しさは非常に破壊的なものとなると考えられます。

 クラインの言う孤独は現実に人に囲まれているかどうかということではなく主観的な問題であり、成長と共に孤独は必ず訪れ、耐えられるかどうかのサバイバルが待ち受けていると言うニュアンスが含まれているようです。

D.W.ウィニコットの考える孤独

 一方、ウィニコット(D.W.Winnicott)は一人でいられることを「能力」と表現し、成長の中で獲得していくものだとしています。一人でいてもその苦痛に圧倒されずに遊ぶことが出来るようになることが健康であると考えたようです。

 そして、彼は能力を手にするためには母親と一緒にいるが一人であったという体験が必要であるとしています。これは安心を供給する母親がいる環境で「見えなくてもいるから大丈夫」という体験を重ねることで一人が苦痛ではなくなることを意味しています。

 ウィニコットの「一人」でいられることと、クラインの「独り」に苦しむことは異なる段階を示しているようにも思われれますが、どうなのでしょうか。

良い対象の内在化

 二人ともとても抽象的な話ですが、キーワードに「良い対象の内在化」という言葉が挙げられていることは共通しています。このことを少し考えてみたいと思います。孤独であるということは先程のとおり自分の存在への確信のなさが苦しみの一つと考えられますが、誰かが自分を愛してくれていたという確信を持つことは、そこに自分の価値が産まれることになるのです。

 多くの場合、これは子供時代に家族の中で育まれるものですが(精神分析家はこれを母親と表現します)、友人や恋人との間で繋がりのある関係を作る方もいます。良い対象を内在化するということは、深く関係を持てる相手がいる自分を確信していることを示しており、このことが孤独を乗り越える礎となるのです。

カウンセリングでは

 孤独に悩む方がカウンセリングを求める時は非常に情緒が揺さぶられて来室されることが常です。情緒が動いていることは健康な気持ちが機能している証拠ですが、自分の存在価値が揺れている状態でもあるので、当人としてはとても辛いだろうと思います。

 カウンセリングの中では先程のように人との関係をどのようにしていきたいのかというテーマを扱いたいのですが、多くの場合はこのことをすぐに話題にすることは出来ません。まずは、これまでの人間関係がどのようなものであったのかなどの事実を話題にして、人付き合いで感じる戸惑いや喜びをカウンセラーと共有できると良いでしょう。この過程で求めている人間関係に自然と気付く方もいらっしゃいます。そして自分が苦しくならない人間関係が見えてきたところで、どのように行動をしていくかが焦点となっていくかと思われます。

参考:辛さを感じるための心の準備

 より自身の内面に話を深めていくのであれば、求める人間関係を何故得られなかったのかというテーマが浮上します。人によっては辛い話となるでしょうが、自分の求める関係と現実に可能な関係の擦り合わせを行うことが必要です。多くの人は理想としている人間関係を得ることが難しいことに気付き、ある種の絶望を体験します。この絶望と折り合いが付くと苦痛は和らぐことになるかと思いますが、主観的な「孤独である」ということ自体が本当の意味で解消されるかどうかはその人次第という気もします。これは、良い対象との出会いがあるかどうかという個人の努力だけではどうにもならない要因も含んでいるためです。

参考

・D.W.ウィニコット(著)(1958), 牛島定信(訳)(1977). 情緒発達の精神分析理論「一人でいられる能力」, 岩崎学術出版社. 
・M.クライン(著)(1963), 小此木啓吾, 岩崎徹也(訳)(1996). 羨望と感謝(メラニークライン著作集5)「孤独感について」, 誠心書房.

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