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はじめに
カウンセリングを実際に受けた方から、「うんうんと聞いてくれるけど何も言ってくれなかった」色々と話したのに「それで、どう感じました?と聞かれて腹が立った」などの感想を聞くことがあります。まぁ確かにそうですよね、日常生活の中でこんな返答されたら誰だって腹が立つことでしょう。ただ、これらの感想はカウンセリングの利用の仕方がよく分からないために起こる指摘でもあるのかなと思います。
本コラムシリーズではこれからカウンセリングを受けようと検討している方や実際にカウンセリングを受けている方に、これからの展開の見通しを持ってもらうことを目的にしています。
カウンセリングの予備知識
カウンセリングは元々西欧の文化を輸入したものであり、日本人の物の考え方と異なる視点から生まれています。そのためかは分かりませんが、カウンセリングという言葉だけが普及して、その本質が十分に周知されていないように思います。そして、その背景に我々カウンセラーが世の中に発信することを怠ってきた側面があることも否定はできません。今後、我々日本人がカウンセリングを有効に活用するためには、カウンセリングとは何か、用いられる心理療法の目的は何かなどの知識を身に付けていくことが必要であるように思います。それは、自分の心を知るための手段を身に付けることを意味しています。
曖昧にしておくことと心理療法の相性
日本では物事をハッキリと言わない文化があります。しかし、全くの隠匿もまた美徳に反します。障子や襖の存在は相手の存在に気付きながらも気付かないフリをするというマナーがありますし、歌舞伎などの黒衣の存在も見えないものとして扱うことが決まりです。このような文化は日本人の思考や心との向き合い方にも影響を与えているはずです。一方、曖昧にしておくことは心理療法の目的によっては良い方向に作用しないこともあります。
心理療法は心の深層を知ることを目的としていますが、曖昧にしておくという姿勢は心に潜ることの抵抗となり得ます。北山(1993)は一つの言葉に含まれる多義性を指摘しており、例えば「ハコのよう」という言葉には窮屈さと守られる安心があるとしています。このような比喩の言葉が意図することを明らかにしていくことを多くの心理療法で行うわけですが、曖昧で良いという姿勢は言葉の多義性もそのままにしておくことになりますので、真実を知るという目的とズレが生じます。どちらの気持ちも本心でしょうから限定しなくても良いのでしょうけれど、曖昧にして「置く」ということはそもそも知ろうとする姿勢が起こらないのです。このことが時に心理療法の進展を止めてしまうことがあります。
知ることが心理療法に与える影響
ビオン(W.R.Bion)は精神分析の進展に必要なことは「知る」という姿勢であるとしています。そして、相談者と分析家が知る姿勢を共有することが精神分析に必要であるとしています。実際の「知る」姿勢は面接の進展の中で停滞し…変容し…となかなか維持することが難しいので、離れても何度も戻ってくるというしつこさが必要になります。ビオン(1959)の臨床では知ることから距離を取ろうとする患者とそこにしつこく食らいつこうとするビオンの姿勢を見ることが出来ます。ここには先程の曖昧にしておくという姿勢とは随分と異なるやりとりが描写されていると言えるでしょう。
曖昧を許容するか知ることを求めるか
精神分析や心理療法の技法を駆使して行われるカウンセリングでは上述のどちらの姿勢もあり得ることだと思います。曖昧に耐えられることを目的として面接を重ねることもありますし、心の真実を知ることを目的として苦悩しながらも探求していくこともあります。カウンセリング開始時に何を目的として会っていくのかを話し合えると良いでしょう。両方の姿勢に共通する目的はカウンセラーという他者との関係が土台にあり、関係性の影響を考慮しないとその場で生じていることの意味が分からないということです。この考え方を相談者側も承知しておくことでカウンセリングの時間は随分と有意義なものになるはずです。
おわりに
「カウンセリングの過ごし方」シリーズでは、カウンセラーとの関係性をキーワードとして、その移り変わりを眺め、カウンセリングではどのようなことが生じているのかのイメージを持って頂けたらと考えています。この記事がこれからいらっしゃる皆様の準備体操としてお役に立てば嬉しい限りです。
参考
- W.R.Bion(1959). Attacks on Linking. 松木邦裕(監訳)(2007). 再考:精神病の精神分析理論「連結することへの攻撃」, 金剛出版.
- 北山修(1993). 言葉の橋渡し機能およびその壁[北山修著作集2], 岩崎学術出版社.